春香「765プロが倒産してもう1年かぁ……」
1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 00:10:55.70 ID:8cEOE8zu0
私は天海春香、元アイドルの18歳です。
去年まではローカル局の料理番組に出演したり、毎月CDを発売したりして
とてもハッピーな毎日でした。知名度はお世辞にも高いとは言えなかったけれど
夢のアイドル生活は、まさに言葉通り今思うと夢の中の出来事だったのかも知れません。
そんな今の私の生活は……
「いらっしゃっせー!お好きな席におかけくだヴぁい!」
「ちょっと春香ちゃん!7番さんのオーダー間違えてるよ!牛丼並じゃなくて大盛り!」
「いらっしゃ……すいません!店長!」
牛丼屋でフリーターやってます
8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 00:24:16.73 ID:8cEOE8zu0
バイトを初めて数カ月、未だに慣れないことばかりです。
持ち前の元気さを買われて面接では即採用だったけれどめまぐるしく変化する飲食店という戦場に
突然放り込まれた私は、ドジっぷりを最大限に発揮してしまいます。
「春香ちゃん!また転んだの?!何回も気をつけて運んでって言ったよね?」
「ごめんなさい。プロデュ……店長」
「はぁ、やる気あるのはわかるんだけどさ、こう何度もミスされるとこっちも困るよ」
「はい……」
バイトが終わる頃にはもう外は真っ暗でした。駅の前で立ち止まってメモ帳を開き、丸で囲まれた「バイト」という字を確認します。
空白が多い日程を改めてみるとなんだか悲しい気分になってきます。以前はビッシリとスケジュールが埋まっていて休みが欲しいと嘆いていた日々が嘘のようです。
以前は街を歩いていると時たまファンの方たちが話しかけてくれたんですが今は一人もいません。アイドルって賞味期限があるものなんだと実感しました。
「プロデューサーさん……」
誰にも聞こえないように呟くと自然と涙がこぼれてきました。でもそんな信頼するプロデューサーさんはもうこの世にはいないのです。
プロデューサーさんは過労死で他界しました。中々オーディションに合格できない私たちに優しく、時には厳しく支えてくれました。
夜も寝ずに12人ものアイドルを一人で背負うにはさすがに荷が重すぎたのでしょう。収録の日の前日に突然自宅で倒れてそのまま
意識が戻らなくなったそうです。お葬式の日は皆、声をあげて泣いていました。あの千早ちゃんですら嗚咽をあげて棺桶の前で突っ伏していました。
社長はその責任を問われて辞任し、私たちの仕事も日に日に無くなっていきました。
そして去年、とうとう765プロは倒産。アイドルグループは解散し、また私は普通の高校生に戻りました。
「みんなに会いたいな……」倒産以来自然とみんなとは疎遠になってしまいました。
きっとみんなプロデューサーさんの一件が重く心にのしかかっているのだと思います。
私がもっと頑張っていれば。そう思うと胸がきゅっと締め付けられてあの優しい顔が心に浮かびます。
「私、最近笑ってないよね」誰に聞くわけでもなく、ただそう呟きました。
プロデューサーさんに春香は太陽みたいだな、と言われた事を思い出します。
いつも通り何かコンビニでスイーツでも買って帰ろうかと思っているとどこからか聞き覚えのある歌が聞こえてきました
「……あお………り………」
透き通るような声。聞き間違えるハズがありません。アイドル時代私と一番仲が良かった友達の、歌と声ですから。
「あおいいいいとりひいいいいぃぃぃ」
千早ちゃん……。千早ちゃんは夜の駅前で自身のイメージソングである「蒼い鳥」を熱唱していました。
前は小さなライブハウスくらいなら埋め尽くすような観客の前で歌っていた千早ちゃん。
今では寂れた駅のホームで数人の仕事帰りのサラリーマンさんしか立ち止まってくれません。
「ねぇ、ちょっとそんなしみったれた暗い歌だけじゃなくてさ、もっと明るくパーっとしたの歌えよ」
酔っ払っているのでしょう。赤い顔の千鳥足でフラフラしているカップルらしき人が千早ちゃんに絡みます。
「もしーしあわー……えっ。」
歌の最中で話しかけられた千早ちゃんはちょっと不機嫌そうな顔をしました。こういうところはやっぱり千早ちゃんです。
「あの、すいません。私こういう歌しか歌えなくて」
「えーなんだよ、それ。つまんねぇなぁ。だから君そんな暗そうなんだよ」
「そうそう~だから胸もぺったんこなのよ~」
「……くっ」
千早ちゃんはぐっと拳を握って耐えていました。
千早ちゃん、まだ歌手を諦めていなかったんだ……。
素直に親友の再会を喜べないのは、どこかアイドルを諦めた今の私の、ちょっとした後ろめたさがあったからかも知れません。
私はそんな千早ちゃんを物陰に隠れながらぼーっと眺めていました。
千早ちゃんはカップルに散々絡かわれた後、深呼吸をゆっくりして再び歌い始めました。
「あおいいいいとりいいいひぃいいいいいもししあわせえええ」
どうして蒼い鳥しか歌わないんだろう。私はふと疑問に思いました。
確かに千早ちゃんが一番気に入っていて、ライブでもアンコールに必ず歌うような特別な曲だけれど
他の曲が歌えないわけじゃありません。中には明るい曲もあったし、一緒にデュエットをしたこともあります。
そして思い出しました。「蒼い鳥」は千早ちゃんにとってプロデューサーさんとの大切な、約束の曲であったということに。
千早ちゃんはプロデューサーさんの生前、こんな約束をしていました。
「プロデューサー、私この曲で世界へ羽ばたこうと思います。だから、私のこと、応援していてください」
プロデューサーさんはにっこりと笑って「よし、じゃあ千早が世界一になるまで俺がずっと傍にいるよ。約束だ」
といって小指をそっと差し出し、指きりげんまんをしました。
私はその時、隣にいたのですが千早ちゃんのあの時の笑顔は今まで見たことのないほど輝いていました。
「あの時の約束まだ守ってるんだ……。」
プロデューサーさんはもう死んじゃったのに。そう思った瞬間、数メートル先にいる千早ちゃんが不意にぼやけました。
「あれ、目が悪くなったのかな。おかしいなぁ……。」
「おい!うるせーんだよ!静かにしろよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
千早ちゃんは心無いヤジにも一生懸命耐えてその後もずっと「蒼い鳥」を歌っていました。
千早ちゃんは歌い終わった後に深々と頭を下げたまま
「今日も皆さん、聴いてくださり本当にありがとうございました。」と言いました。
拍手は一切起こりませんでした。立ち止まってい歌を聴いていた人もいつのまにかいなくなっていました。
千早ちゃんの目の前を素通りする人々は目もくれずに去っていきます。
私はいてもたってもいられずに、精一杯大きな音が鳴るように拍手しながら、
千早ちゃんの元に歩み寄っていきました。
「ありがとうございます!」
千早ちゃんは頭をあげてあの時の、プロデューサーさんに見せたような笑顔をお客さんの私に向けました。
「千早ちゃん。久しぶり、すっごく良かったよ……。」
「は……春香……。」
「なんだか、かっこ悪い所を見せちゃったわね。」
千早ちゃんは私に背を向けながら、目の前に広げていた自作のPOPやCDをせっせと片づけ始めました。
「そんなことないよ。」
そう、千早ちゃんはいつもストイックで何事に対しても全力でマジメに取り組む子なのです。
前に、千早ちゃんそんな気を張っていたら疲れちゃうよ、と言ったことがあります。
千早ちゃんは
「ありがとう。でも私なら大丈夫。歌うことが私の幸せだから」と微笑みを向けました。
もうアイドルじゃなくても、千早ちゃんは千早ちゃんなんだなぁ。それなのに私は……。
ダンボールに詰まっているCDが目に止まりました。
開封したてのようにぎっしりと詰まっている様を見るに、多分1枚も売れていないのでしょう。
私はその中の1枚を手に取って眺めました。
そのデザインは、お世辞にも優れているとは言えなくて、千早ちゃんの顔写真のアップに、変なフォントで「蒼い鳥 如月千早」と
書かれているだけのものでした。
これじゃ売れるはずないよ、千早ちゃん。
でも、きっと機械音痴な千早ちゃんが慣れないパソコンを使って、必死に作ったんだよね……。
「1枚、買っていくよ。千早ちゃん」
私はバックからお財布を出し、中身を確かめます。うん、大丈夫。この前お給料日だったからなんとか買える。
正直今、時給が少なくて大変だけど、千早ちゃんのためなら。
千早ちゃんは驚いた顔をしました。そうだよね。
だって765プロのときに出した「蒼い鳥」のCDはうちに何十枚もあるから私が買うのって変だもんね。
倒産のときに抱えた大量のCDの在庫は私たちの希望があれば好きなだけもらえました。
「えっ……そんな……」
「いいから、いいから。千早ちゃんはずっとず~~っと仲間だもんげ!」
「ありがとう春香。あなたが、私のCDを買ってくれた、初めてのお客よ……。」
千早ちゃんはうっすらと涙を浮かべていました。私も多分、そうだったと思います。
「あっ……」
「どうしたの?春香?」
お札を握る手がぷるぷると震えてきました。
どうしよう。このお金を払っちゃったら帰りの電車賃が無くなっちゃう。
「千早ちゃん……ごめんね……」
「えっ」
「私、これ払っちゃったら、その、あの、電車が」
「電車?」
千早ちゃんの顔がどうしても見れずに、俯いたままボソボソと呟きます。
たとえば、真が今の私を見たらどう思うかなぁ。
春香!元気がないよ!ボクたちパーフェクトサンなんだよ!といって肩を叩きながら励ましてくれるんだろうなぁ。
もし、伊織がいたら
ちょっと、何しょんぼりしてんのよ。らしくないわよ。全くも~とかいって伊織らしく声をかけてくれるんだろうなぁ。
真も伊織も何しているんだろ。もし会えたら千早ちゃんは今も頑張っているんだよって伝えてあげたい。
「春香、もしかしてお金が無いの?」
軽く現実逃避をしていた私は千早ちゃんの声で不意に引き戻されました。
「……うん。」
あの時の惨めな気持ちは、例えようが無いものでした。
その後、千早ちゃんが気を使ってくれてCDをタダでくれました。
私は何度もごめんね、ごめんねと千早ちゃんに謝り続けました。
千早ちゃんは
「いいのよ。久々に会えたわけだし、私の歌を聴いてくれていただけでも本当に嬉しかった。
それに春香は、私のパートナーでしょ?困った時はお互い様じゃない」
その千早ちゃんの全ての言葉が私に突き刺さりました。
久々の再会がこんな結果になってしまったこと、私は歌うことをやめて牛丼屋のお荷物バイト、
デュオを組んでいた千早ちゃんにこんなに気を遣わせてしまったこと。
私は連絡先を交換した後、千早ちゃんと別れました。
一度も笑えませんでした。久々に会えてすごく嬉しいハズなのに。
千早ちゃんはこの後も別の場所で路上ライブを行うのでしょう。
重そうな荷物をよろよろとした足取りで抱えつつ、夜の闇に消えていきました。
「コンビニでも行こう……。」
私は沈んだ気持ちで、下を向いて歩きました。電車賃、落ちてないかな……。
気分転換に、普段とは違うコンビニに行くことにしました。
どうしようもなくなった時は、こういうちょっとしたことが楽しかったりするものです。
ここ最近コンビニで、知らず知らず習慣になってしまったことがあります。
雑誌のコーナーに真っ先に行き、週刊誌に目を通すことです。
ライバルだった事務所のアイドル達は、今や押しも押されぬトップアイドルです。
テレビを点けたら毎日その姿を見かけるし、都市の電光掲示板では生き生きとダンスを踊っています。
もしかしたら私も今頃は……。
そんなことを考えても無駄なことはわかっているのですが、どうしてもやめられません。
雑誌の表紙を飾ったことは無いけれど、ファッション誌の小さな記事に初めて私が掲載された時は
涙が出るほど嬉しかった。その日は765プロきってのパーティーが開催され皆、春香、おめでとうと祝ってくれました。
切り抜きは今でも私の机に飾ってあります。
もう、こうして羨ましがるのはやめにしよう。
私はまだまだ18歳、アイドルの夢が潰えたからといって未来が無いわけではありません。
そう思って雑誌をゆっくりと閉じ、戻しました。
だけど、きっと私は明日も同じことをしてしまうのでしょう。
「お腹減ったなぁ。」
バイト明けでお昼から何も口に入れてないので、お腹の虫がくぅと鳴りました。
牛丼ばかり食べてて体重は少し増えてしまいました。
具体的には言えませんがアイドルとしてはちょっと厳しい数字です。
「ダイエット中だけど、少しだけ食べようかな」
昔はアイドルとして減量生活をしていましたが、今のダイエットは完全な自己満足で、何を食べても自由です。
俯いたままレジへ向い、小さな声で店員さんに言いました
「からあげくんください」
「……春香」
落ち着いた声で店員さんが私の名前を呼びました。
こんな場所で自分の名前を呼ばれるなんて全く予想をしていなかったのでちょっとビックリしました。
ファンの人かな。だったら謝ろう。
アイドルの天海春香はもういないの。だからもう私のファンの前で笑ったり、握手することはできないんです。
「あ……」
顔をあげると、私がよく知っている人がそこにはいました。
トレードマークのメタルフレームの眼鏡に、左右に跳ねたお下げの茶髪。
「からあげくんレッドじゃなくていいの?」
「律子さん……」
店員さんは、私と一緒にステージに立ったアイドルでもあり、陰で支えてくれた事務員でもあり、またもう一人のプロデューサーでもあった
秋月律子さんでした。
「律子さん……」
呆然としている私に、律子さんはやれやれという風にため息を一つつき、
「210円になります。お客様」
と囁きました。私はそれで意識を取り戻したかのように
「あっ、はい、すいません!」
と謝りつつ財布の小銭を急いで取りだそうとしました。
しかし、ドジな私は手が滑ってしまい、コンビニのよく磨かれた白い床に思いっきりお金を
ぶちまけてしまいました。
「すいません、すいません。」
私は膝をついて、大急ぎで散らばった小銭をかき集めようとしました。
なんだか、最近謝ってばかりです。
「すいません!210円ですね!すいません!」
バイトの謝り癖がどうしても抜けません。
律子さんは少し訝しげな表情を浮かべましたが、やがて察したように
「ごめんなさい、本当はタダにしてあげたいのだけれどそういうの店長がうるさいのよ」
と私の耳元に顔を近づけて言いました。
律子さん、コンビニの店員してるんだ……。
私と同じ境遇なのかな。そう思うと少しだけ気持ちが楽になった気がします。
「春香、あと15分47秒で勤務時間が終わるから、もし予定が無かったら外で待ってて貰える?」
「えっ あ、はい。わかりました」
1年ぶりに再会する律子さんは相変わらずキッチリしていて、まさに仕事ができる女といったところです。
軽く会釈をして、コンビニの外でホカホカのからあげくんを食べながら律子さんを待ちました。
「からあげくんおいしい……おいしいなぁ……」
うわ言のようにおいしい、おいしいと唱えながら口一杯に頬張りました。
もう日付が変わる頃に、コンビニの駐車場でからあげくんを食べている女の子が
珍しいのか、道を横切るカップルやスーツを着た人たちが私を一瞥して去っていきます。
なんだか、このからあげくんちょっと味付けがしょっぱいです。
「春香、久しぶりね。はいお疲れ様」
律子さんは隣に腰掛けて、冷たい缶コーヒーを私の目の前に差し出しました。
「ふえ、いいんですか?」
「これは仕事が終わった後にプライベードで私が買ったものだから、気にしない気にしなーい」
「ありがとうございます」
缶を両手で包み込むと、ひんやりとしていて私の火照った体を冷ましてくれました。
「律子さん、髪型元に戻しちゃったんですか」
「あー、そうねぇ。コレだと年配受けがいいしそれに……」
コーヒーのプルトップを開けて、続けます。
「ま、もう色気づく必要は無いしね」
その時、律子さんの表情がほんのちょっとだけ暗くなりました。
「あのぅ、ちょっと失礼なこと聞いてもいいですか?」
「んー?なーに?」
「律子さんどうしてコンビニで働いてるんですか?律子さんだったら、もっといい職場にだって……」
「あんたねぇ、そういうトコロは全然変わってないわね」
「ご、ごめんなさい」
「ま、そこが春香の長所でもあるんだけれどね」
律子さんはそう言って、意地悪な笑顔を私に向けました。
さすが律子さん。プロデューサーとして私達を見てくれただけあって、何でもお見通しのようです。
だから、現状を察してくれたのか私の生活について一言も聞かれることはありませんでした。
ついこの前までは
「天海春香17歳です!夢はアイドルとしてステージに立つことです!」
と胸を張って自己紹介できたのに、今は何も詮索されたくありません。
「ま、このコンビニは私がアイドル時代にイメージガールとして起用された事があるから、
色々と都合がきくしね。それに、今は準備期間。これからどんな職に就くとしても資格やら経験やら必要になるから」
平坦な口調で律子さんは語ってくれました。だけどその瞬間、私は顔が急にかぁっと赤くなるのを感じました。
私は宛も無くフラフラとしているだけ。さっき、私と同じ境遇だなんて思ってしまったことが恥ずかしいです。
「あの、さっき千早ちゃんに会いました」
なかば必死に、なるべく悟られないように話題をすり替えました。
「また急な話ね……」
「聞いてください千早ちゃんたら凄くって──」
それから私は先ほどの出来事を、なるべく明るく好意的に天海春香的に伝えました。
電車賃が無くてCDが買えなかったことは黙っておきました。
「へぇ~やるじゃない」
律子さんは感心、感心といった具合に首を縦に振りました。
「そうなんですよ。千早ちゃんだったら絶対に……」
そう言いかけて、止めました。それは私の、すっかり板についてしまった
雪歩印のネガティヴシンキングからによるものではなくある突拍子もない閃きが生まれたからです。
「律子さん……今、やりたいこと探してるんですよね?」
「そうだけど、なんか良からぬ事たくらんでるわね?」
「えっ どうしてですか」
「目を見ればわかる」
こういうどうとでもないやり取りが急に懐かしく、遠いもののように思えました。
去年、みんなで海へ行き、私が海で溺れそうになったときに真っ先に駆けつけてくれたのが律子さんでした。
その時も確か律子さんはこう言ってました。
「全く、春香は本当に危なっかしいんだから。よ~~く見張っておいて正解だったわ」
「あ、あははは~……。ありがとうございます~……」
あの日の天海春香は無邪気に笑っていました。
「あのっあのっ、無茶なお願いなのはわかっています!千早ちゃんをまたプロデュースしてください!
千早ちゃんは私と違って才能があるし、熱意もあるから!だけど千早ちゃんって一人で頑張りすぎちゃって周りが
見えないことがあるからだから律子さんが傍にいてくれればきっとうまく──」
「残念だけど、それは無理」
まるでそう言うのがわかってましたと言わんばかりに私の言葉を遮りました。
息を荒げて、涙目な私とは対照的に、律子さんは落ち着いた冷静な口調で、三本の指をつきだしてこう言いました。
「理由は3つあるわ」
律子さんはゆっくりと薬指を折り曲げて続けました。
「まず一つ、資金が無いわ」
「………」
あまりにシビアかつ現実的な答えに私は空いた口が塞がりませんでした。
「プロデュース業もボランティアじゃないからね。それになりに元手がいるのよ。
そんな大金、しがない二十歳のからあげくん揚げてるコンビニ店員にあると思う?」
「……でも!」
「二つ目ね」
今度は中指を手のひらにしまいます。
「私たちのプロデューサーが過労死したことは随分と騒がれたわ。
『12人のアイドルを同時にプロデュースする敏腕プロデューサー』なんて業界ではちょっとした有名人だったしね
そんなアイドルを積極的に使いたがると思う?負のイメージを払拭するのって中々難しいの」
「でも……でも……!」
もはや懇願というよりも、ただの悲痛の叫びでした。
「最後の3つ目なんだけど……。まぁ私って凝り性だから状況が困難なほど燃えるものだし、今まで言った2つの事は
対して重要ではないの。」
そう言って律子さんは人差し指を収めて、ぎゅっと拳を握りました。
「私はね、もうトッププロデューサーの夢は諦めたの」
「……!」
「今までは単なるお伽噺だったってことかな」
心無しかそう言う律子さんはいつもよりなんだかちっちゃく見えました。
「私の父が経営家なのは知ってるでしょ?そんな父の背中を見て育って、
私も実業家を目指していたけれど、あんなことがあったでしょ」
普段強気な律子さんが見せる脆さを私は知っていました。こういうところはちょっと千早ちゃんに似てる。
飲みかけの缶コーヒーを啜りながらポツポツと律子さんは言葉を紡ぎました。
「だからね、私はみんなをあんな悲しい目に合わせるのは、二度とイヤなの。」
そこで私は気づいてしまいました。律子さんはプロデューサーさんと一番長く、時を共に過ごしたことに。
事務員でもあり、プロデューサーでもあった律子さんは二人三脚で、お互い助け合って歩んできたに違いありません。
だからそんな律子さんは、きっと誰よりも一番プロデューサーさんの死に責任を感じているのでしょう。
律子さんの大きな瞳から大粒の涙がひとつこぼれました。
「あーもー、らしくないったらないわ。センチメンタルな気分にさせないでよ」
眼鏡を外して涙を拭う律子さんがそのとき、ただただ悲しく映りました。
「力になれなくて悪いわね。そういうことだから。あ、あとたまには連絡しなさいよ」
スッと立ち上がった律子さんの目からはもう涙は消えていました。
「さっ、もう遅いでしょ。未成年は早めに帰宅すること。」
律子さんは半ば強引に私の背中を押します。
きっと律子さんは私がいなくなった後、一人でまたちょっとだけ泣くのでしょう。
だけど、お節介だとは思いながらもどうしても心に引っかかったことがあります。
よした方がいいのに、つい口に出してしまいます。律子さんからしたらこれも私の良いところなのかな。
「嘘ですよね」
「えっ」
私を押す手の力が抜けるのが、背中越しに伝わりました。
「プロデューサー業を諦めたなんて、そんなのウソですよね。本当はまだやりたいんですよね。」
「……」
夜の駐車場に沈黙が流れました。
律子さんの気持ちは私には、痛いほどわかりました。
本当はアイドルをやりたいけれど、自分ではどうしようもない現実。
もう二度と戻ってはこないと思いつつも、どうしても追い求めてしまう思い出の日々。
「……」
背後にいるので、律子さんが今どんな顔をしているのかはわかりません。
けれど……。
「理想論語っても仕方ないでしょ。765プロはもう無くて、プロデューサーはいない。
なにより、みんなはバラバラになってしまったし……。今さら新しい子たちと仲良くやれったって……」
「──ますか」
私はくるっと半回転し、律子さんの正面に向きなおります。
良かった。今回は転ばずに済んだ。これでコケちゃったら格好つかないですよね。プロデューサーさん。
私、ちょっと勇気を出して、頑張ってみようと思います。
「春香?」
「私が、もしみんなを説得できたら、またプロデューサーになってもらえますか!!!」
「はぁ、ただいま」
真っ暗な部屋で、ため息がひとつ。
お母さんとお父さんはもう寝てしまっているみたいです。
家に帰る頃には時計の針はもう1時を指していました。
引き千切るようにリボンを解き、シンプルな白のジャケットとピンクのシャツを床に脱ぎ捨て……
「あぁぁぁやっちゃった やっちゃった!どうしてあんな事言っちゃったんだろう!」
ベッドにダイブして、枕で顔を隠しながら力の限り悶えました。
絶対無理だよあの時はちょっと私も雰囲気に呑まれちゃっただけであって私なんて普通のどこにでもいる
何の変哲もないフリーターだしそもそも私が律子さんに偉そうなこと言える立場でも無いしアイドルとしての
努力なんて今はもう何もしてないしあーもうわっほい!
下着姿で転げまわってる私にはもはやアイドルの面影もありませんでした。
暴れたら少し落ち着きました。
寝転がったまま、ゆっくりとさっきのコンビニでの出来事を思い出します。
律子さんは呆気に取られていました。
まるで石像になったかのように硬直する律子さん。
もしカメラがあったら撮影したかったなぁ……。
「あ、あの……」
なんだか居た堪れなくなって、苦笑いを浮かべながら律子さんに話しかけました。
すると突然、堰を切ったように律子さんはお腹を抱えて笑い始めました。
「春香、あんたサイコー!話がぜっんぜん繋がらないし、支離滅裂じゃない!」
「えっあの……」
うろたえる私の前でお構いなしにひとしきり笑い転げた後、一つ深く息を吐いて言いました。
「春香、あんた携帯変えたでしょ?」
突然の話の転換にちょっとビックリしましたが、落ち着いて答えました。
「はい。転んで水に落としちゃって……データも全部消えちゃいました」
「どおりで繋がらないわけだ。で、どうやってこれから皆に連絡とるつもり?」
「あ……」
勢いに任せて何も考えずに言った自分が、また段々と恥ずかしくなってきました。
「はい、これ」
律子さんは小さなポーチから1枚の紙切れを取り出し、私の手に握らせました。
「電話番号と住所、全員分ね。あ、悪用しちゃダメよ。」
「律子さん……」
そのあと、律子さんと駅まで一緒に帰りました。
結局、返事は聞けませんでしたが別れ際に春香は765プロの皆が大好きなのね、と
律子さんはそう言って改札を抜けていきました。
なんだか私、ちょっと元気が出てきたみたいです。
「……ブログの更新でもしよう」
ノートパソコンの前で胡坐をかいて、ブラウザを立ち上げます。
パソコンの操作法は小鳥さんに教えてもらって、インターネットを使うくらいなら出来るようになりました。
慣れた手つきで、お気に入りから私のブログのページを開きます。
えーっと……
みなさん!今日は更新が遅くなってごめんなさい!
今日はなんとあの如月千早ちゃんと秋月律子さんに会っちゃいました!
オーディションの帰りがけにばったりと会ったんですが、本当にビックリ☆
すぐにまた仲良しの3人に戻って、すっかり話しこんじゃいました。
今回のオーディションは、自信があります!皆さん、これからも天海春香を応援してくださいねー。
書き終わった後に、深いため息が漏れました。額に手を当てて、たっぷりと自己嫌悪に浸ります。
そう、私はネット上ではまだアイドルの天海春香を演じているのです。
現役だった頃は、更新した瞬間にはもうコメントが何件もついていて
あぁ、また1人1人にお返事するのが大変だなぁ、なんて笑っていましたが
今ではすっかり閑古鳥が鳴いていて、「春香ちゃんはできる子応援団」なるファンの方たちが2~3人ほどたまに書き込んでくれるだけです。
あとは、コメントがついたと思ったらどこかの怪しいサイトの宣伝だったりしたりして。
だけど、それでも応援してくれる事が嬉しくて、ついつい皆さんが喜んでくれるようなウソをついてしまいます。
今日はもう寝ようかな。シャワー浴びてないけど、まぁいっか。
そっと電気を消して私は深い眠りにつきました。
「す、すいませーん!遅刻しましたぁ!」
「春香ちゃぁん!早くホール入って!今日は休日だから忙しいんだからね?!」
「ごめんなさい!はい、お客さん、特盛りですよ!特盛り!」
「そういうのいいから!」
「すいません、つい癖で」
次の日は早朝からのバイトで大遅刻をかましてしまいました。
ただでさえ肩身が狭いのに、遅刻までしてしまったら
店員さんの私を見る顔が険しくなるのも無理がありません。
一生懸命頑張ればなんとかなる、と思ってきましたしプロデューサーさんにも
「春香は明るくて、一生懸命頑張るところが俺は好きだなぁ」と私の頭をなででくれたことがずっと記憶に残っています。
だけど、やっぱり向いてないかなって思う時もあります。
プロデューサーさん……。
「ちょっと、仕事中に何泣いてるの?泣きたいのはこっちだよ!」
「ごめんなさい!いらっしゃいませー!」
この日のバイトは転倒2回、オーダーミス1回でなんとか済みました。
「では、お疲れ様でした!お先に失礼します!」
今日のバイトはお昼頃に終わりました。
特にこれから何の予定もありません。スケジュール帳を開いてみますが、当然のように真っ白です。
高校時代はアイドルの活動が忙しかったから、765プロ以外の親しい友達はいません。
いえ、いるのにはいたのですが卒業した後はなんとなく後ろめたくなってしまい、疎遠になってしまいました。
駅前に立ち寄ってみましたが、千早ちゃんはそこにはいませんでした。
「当たり前だよね……」
私は、一体何を期待していたんだろう。体が疲れていると心もつい沈みがちになってしまいます。
「っていけない、いけない! 春香!元気出さないと!」
昨日の律子さんとの一件を思い出し、無理やり自分を奮い立たせます。
「……あれ?」
そこでふと、遠くの方に見覚えのある姿を見かけました。
あの綺麗な青髪のショートカットに、1本角のように突き出た独特のヘアスタイル……。
見間違うハズがありません。
私はその遠くに見えるシルエットに向かって歩を進めます。
「あらあら~困ったわね~」
その人はうろうろと同じ道を行ったり来たりしています。
やっぱりだ。ゆったりとした口調、そして一緒にシャワーを浴びたりするときに、
ちょっと羨ましかったそのグラマラスなスタイル。
私は声をかける前に、軽く深呼吸をしました。
千早ちゃんや律子さんのときはあまりに突然だったけれど、今度は大丈夫。ちゃんと笑える。
精一杯の微笑みを携えて
「あずささん」
その人の名前を呼びました。
あずささんは相変わらずゆっくりとしたペースで私の方を振り返りました。
それから私の顔をまじまじと見つめて、目をパチクリとしたあとにやっと
「あら~春香ちゃんじゃないの~おはよう~」
「おはようってもうお昼ですよ……」
まるであずささんはつい昨日にでも出会ったかのように呑気な挨拶をしてくれました。
もしかしたらあずささんの中では、1年の月日なんてほんの些細なことなのかも知れません。
そして、そんな何も変わらないあずささんがなんだかとっても懐かしくて、とっても嬉しくて
ついつい自然と笑みがこぼれてしまいます。
あぁ、なんだか久しぶりに普通に笑えました。
「春香ちゃん~私また道に迷っちゃって~」
「ふふっ、何処に行こうとしてるんですか?あずささん」
このゆっくりと時間が流れるような感じが大好きで、私の胸はポカポカとしてきます。
ちょっと頼りないけれど、一番年上のお姉さんとして私たちのムードメーカーとなってくれたあずささん。
本当に、本当に会えてよかった。
「春香ちゃんはここの道に詳しいのね~」
「えぇ、何でも聞いてください!」
「あらー頼もしいわね~」
「ふふっ」
「えっと~765プロの事務所はどこにあるのかしら~」
「……えっ」
「お仕事に遅れちゃうわ~」
その瞬間、私の心が一気に凍りつきました。
あずささんは、本当にあの日以来何も変わっていなかったのです。
「あずささん……!」
思わず涙がこぼれそうになるのを歯を食いしばってぐっと堪えます。
昨日の千早ちゃんはどんなひどい言葉をぶつけられても必死に歌っていました。
律子さんは、本当は辛いけれども、私の前ではしっかり者の律子さんでいてくれました。
だから今日は、ここは私が頑張らなくちゃいけない場面です。
「765プロは……765プロは……」
言葉が上手く喉から出てきません。
「もうどこにも無いんです……!」
良かった。どうしてもあずささんの顔を見られなくて目を瞑ってしまったけれど、ちゃんと言いきれた。
「あらーそれじゃあ、お仕事ができないわね~。今日は現場に直接行かなくちゃいけないのかしら~」
「……ぅっ」
胸の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚が収まりません。
もし千早ちゃんが駅にいてくれれば……。
そんなことを考えてしまうダメな私です。
「プロデューサーさんがいないと事務所に行けないわ~」
頬に手を当てて少し小首をかしげるような仕草はあずささんの癖でした。
あずささんは相変わらず持ち前のペースを崩しません。
さっきまではそれが何よりの安心感を与えてくれましたが、今は逆に、不安にさせます。
「聞いてください!765プロもプロデューサーさんももういないんです!
お願いだから……受けいれてください!」
突然大声をあげた私に、街の人々が一斉に振り返ります。
アイドルは見られるのが仕事だから、なんて笑えない冗談が頭に浮かびます。
「……春香ちゃん」
アスファルトを睨んでいた私の頭上で、優しい声が響きました。
「事務所に行く途中にね、大きな坂道があるでしょう」
「……」
「あそこを登っているといつもね」
「……」
「プロデューサーさんがその先にいるような気がするのよ~ダメね~私ったら~」
あずささんはプロデューサーさんが亡くなった事を、心の奥底では認めていました。
「春香ちゃん、今お暇なのかしら~」
「……」
「一緒に行ってほしい場所があるの」
「……はい」
ダメだな、私。
律子さんの前ではあんなに粋がってみせたのに、今はただ必死になにかを我慢することしかできません。
あずささんの数歩後ろに、ピッタリ沿うように行き先も告げられていない場所へ向かいました。
電車に数十分揺らされ、改札を出て、細い路地を小さな歩幅で進んでいきます。
普段は迷子になってばかりのあずささんだけれど、この時ばかりは複雑な道を一度として間違えることはありませんでした。
「あの、もしかして」
「うふふ……」
駅で降りた時からなんとなく予想はついていました。だけどどうして私とここに……?
石畳の階段を抜けた先には、都内では珍しく雑木林が生茂った景色が広がりました。
やっぱりここって……
「プロデューサーさんのお墓……」
お墓の前にはまだ真新しいお花がたくさん添えられていました。
「あら、このお花は美希ちゃんね~」
「えっ、美希がここに?」
「そうよ~。今でもよく見かけるわ~毎回この真っ赤なバラを置いていくのよ~
お供えに棘のある花はよくないって言われてるのにね~」
美希がつい最近ここに来ている……。そのことを知った私はちょっと嬉しくなりました。
まだ美希はプロデューサーさんの事を忘れていない。会おうと思えば、いつでも会うことができる。
「それと貴音ちゃんにもたまに会うわね~」
その名前を聞いた時に、ちょっと複雑な気持ちになりました。だって高音さんは……。
「プロデューサーさんお元気ですか~。今日は春香ちゃんが一緒に来てくれましたよ~」
あずささんはお墓の前に座り、笑顔で手の平をそっと合わせます。
やだなぁあずささん元気なわけ無いじゃないですか!そうツッコもうとしてやめました。
冗談にしては全然笑えないですよね。
私がここに来るのは半年ぶりのことです。
それはプロデューサーさんへの気持ちがを薄らいだ訳では無くて、
このポツンとたっているお墓を見ると、プロデューサーさんが死んでしまった事を
何よりも実感して、辛くなるからです。
「あの、どうして私とここに?」
先ほどの疑問をあずささんにぶつけます。
なるべく平静を装おうとしますがどうしても言い方が固くなってしまいます。
「プロデューサーさん~起きてください~」
私を無視するかのようにあずささんはお墓に向かって喋りかけています。
「春香ちゃんが悲しんでますよ~。こんな良い子を悲しませるなんて、あんまりですよ~」
「あずささん……」
ダメだ、やっぱりあずささんはおかしくなっちゃったんだ……。
「……本当はね」
「えっ」
あずささんの声がほんのちょっとだけ低くなりました。
「私もわかっているの。プロデューサーさんにはもう二度と会うことができないって」
「あずささん……」
それからちょっとの沈黙が流れて。
そよ風が木々を揺らします。都内では珍しく、セミが鳴いていました。
しばらくして、あずささんがいつものんびりした口調でゆっくりと語り始めました。
「今でもよく覚えているわ~。そう、あれは今日のようなとても暑い日だったわね~」
「……」
私はただ黙って聞いていました。
「前日はオフの日で、私は友美とお買いものをしていたのだけれど、突然プロデューサーさんから電話がかかってきたの
あずささん!やりました!他のアイドルのキャンセルで急遽明日の仕事が取れたんです!ってね~。
久々のお仕事だったから、それを聞いた時は嬉しかったわ~。それじゃあ、明日事務所に向かいますねとお返ししたら
いえ、あずささん、明日は時間が無いので現場に直接行きますよ!待ち合わせ場所は、そうだあの大きな坂道の先で車を停めておきます!
時間は朝8時で!なんてプロデューサーさん早口で言うものだから覚えるのが大変だったわね~
その日の夜はいつもより早く寝て、待ち合わせ場所に早めについたのだけれど、8時になっても、ずっと待っていてもプロデューサーさんは来ないから
あらあら~おかしいわね~私また間違えちゃったのかしら~なんて思っていたら音無さんから電話がかかってきて、
それで初めてプロデューサーさんが病院に運ばれていたのを知ったわ~。
だからね~毎週土曜日になると、わかっていても、どうしてもあの坂の上でプロデューサーさんの車を探してしまうのよ~私ったらダメね~」
思い出しました。あの、プロデューサーさんが倒れた日はあずささんの番組の収録の日だったことに。
「でも、今日春香ちゃんに会えて、なんだかこれじゃいけないってわかりました~」
「……うぅ」
絶対に泣かないと心に強く誓ったのですが、私はどうしても嗚咽を抑えることができませんでした。
「私、母親が紹介してくれた男性とお見合い結婚しようと思います~
運命の人に会うことは出来なかったけれど、プロデューサーさん、応援してくれますか~?」
「あ……あずささん……」
私はそれからもずっと、「あずささん」とただただ繰り返すことしかできませんでした。
あずささんパートおわり
「ただいま」
赤く腫れた目を両親に見られたくなくて、居間を急ぎ足で通りぬけて、部屋のドアを閉めました。
「もう疲れた……」
結んだリボンを解いてベッドに埋もれると、間髪いれずにドアがゆっくりと開かれました。
「えっ誰……じゃなくて春香、おかえりなさい」
「お母さん、ちょっとノックくらいしてよ!」
「あら私ったら、うっかりしてたわ。春香、最近疲れているみたいだけれど大丈夫?」
「うん、ありがとう。だから心配しないで。」
「そう、春香は昔っから危なっかしいから心配してもしきれないわ。お金の方は大丈夫なの?」
高校を卒業した後に、就職もせずフリーターをしている自分が後ろめたくて、
せめてお金の事だけは迷惑させまいとお小遣いは貰っていません。ちょっとだけですが仕送りも入れています。
「大丈夫、大丈夫!」
「それならいいけれど、アイドルオーディションは結局──」
「そのうちするから!」
痛いところを突かれた私は半ば無理やり、お母さんを部屋から追い出しました。
「あーもー何やってるんだろ」
やっぱり皆を説得するなんて私には無理だったのかな。
もう諦めちゃおうか。
そんなことが頭によぎった時、突然携帯が鳴り響きました。
「ひゃあっ」
着信音に驚いて飛び起き、慌ててディスプレイを確認すると──
「あ、千早ちゃんだ」
そういえば連絡先交換したんだっけ。何の用だろう。
まぁ、昔は全く用事が無い時とか、ただ「オヤスミ」って言うだけのために掛けたりしたんだけど。
「もしもし?」
『春香?』
受話器越しに千早ちゃんの声が伝わってきます。
『この間はゆっくり話せなくて、ごめんなさいね。』
「んーん。千早ちゃん忙しそうだったしね」
千早ちゃんは普段あまり感情を出さない子だったけれど、その声はどこかはずんでいました。
『律子から全部聞いたわ。……ありがとう。嬉しかった』
「えっいやいやぁ……」
『春香のこと、応援するわ。私に出来ることがあったら、何でもするから』
「えっそんな!私の勝手なわがままだから」
『何言ってるのよ、春香は私のパートナーでしょ?困った時はお互いさまよ』
どこかで聞いたようなセリフを再び耳にしました。
段々と気持ちが解れていくこの感じ。ありがとう千早ちゃん。
それから私たちは時間の許す限り、いっぱいいっぱいお喋りしました。
そしてその数日後、私は今、律子さんのメモを片手にあるお店を捜索しています。
「うーん、地図だとここらへんにあるハズなんだけどなぁ。おっかしいなー」
小言を呟きながら慣れない道を行ったり来たり。
律子さんのお手製の手書きの地図は、あまりに詳しく書かれすぎていて逆に分かりづらいです。
似顔絵つきで「ココ!」なんて自信たっぷりにマーキングされててても……。
近くのおじさんに尋ねても
「うーんそんなお店は聞いたことないなぁ」
なんて言われる始末。
「あー!もう!」
もうヤケで片っ端から路地に当たります。
途中に怪しいクラブやカブトムシ料理店が目につきました。気になるけれど、無視です。
突きあたりにぶつかったらまた次へまた次へ。
それを数回繰り返しているとお目当てのお店の看板が目に入りました。
「もしかして……これ?」
目の前にはささくれた板きれに、ゆがんだ手書きの文字で「ペットショップ」と堂々と書かれていました。
「お、おじゃましま~す……」
なるべく音をたてないように慎重に扉をあけて入店します。
私はお客さんのはずなのに、なんたるアウェー感でしょう。
中は意外と広く、いくつも重ねられた檻の中に今まで見たことの無い動物が
処せましと駆けずりまわっています。
うぅ……できれば早く帰りたい。
道中お猿さんやヘビに威嚇されつつも奥に見える、カウンターで新聞を読んでいるおじさんを目指して、天海春香が進みます。
こんなに緊張したのは、初の舞台ライブの時にファンの皆の前に現れる時以来です。
その時は転んじゃって千早ちゃんの衣装を思いっきりずり下げてしまいました。
今思うと、よく復縁できたなと思います。後で牛丼の割引券でもあげよう。
「あ、あの~ここで我那覇響ちゃんが働いていると聞いたんですけれども……」
新聞を読んでいた強面のおじさんが私を右斜め45°の角度で睨んできます。
その迫力に思わず数歩後ずさりしてしまいました。助けて千早ちゃ~ん!
「あ、あの……響ちゃん……」
若干涙目になりつつももう一度問いかけます。
ここで撤退をしてしまったら今日来た意味がありません。
私を品定めするかのように、つま先から頭のリボンまで視線を滑らせたあと、
面倒そうに腰をあげてようやく
「響ちゃん、お客さんだよ~。なんか普通の女の子が来たよ~」
と店内奥に入っていきました。
私の心臓の鼓動が段々と早くなっていきました。
どうしよう。もし、もし響ちゃんがここでひどいことをされていたりしたら。
あの元気一杯の笑顔が、もう二度と見れなくなっているとしたら……。
「もしかして春香か?!」
あ、どうやら杞憂だったみたいです。店の奥にも聞こえるような大声が響きわたって、
ダバダバとした足音が私にに向かって近づいてきました。
「はっるっかぁ~!久しぶりだな~!」
響ちゃんがスピードを全く落とさずに、一直線に私に向かって来ました。
「えっ……ちょっと待っ──」
「ぐふぅっ!」
この弾丸ライナーはあまりに強烈でした。
響ちゃんは私のお腹に思いっきりタックルして、そのまま二人して床に倒れこみました。
「自分、すっごく会いたかったぞ~!元気だったか~?」
響ちゃんはそのまま私の胸の上で頬ずりをしていた……気がします。
「春香?どうした?」
響ちゃんは私の頬をペチペチと叩いていた……そうです。後で聞いた話だと。
「春香?!おい、春香ァァァァァァァァァー!!!」
私の視界は真っ暗になり、そしてそのまま意識を失いました。
3年後──
千早「春香が死んでもう3年の月日が流れたのね」
あずさ「私の赤ちゃんを、春香ちゃんにも見せたかったわ~」
律子「私たちはどうにかこうにかトップアイドルになったけれども、春香はもういないのね」
響「春香……どうして……」
貴音「わたくしが、もっと早く春香に会えていればこんなことには……」
4人の視線の先には、プロデューサーの墓石の隣に、「天海春香」と書かれた割り箸が一本地面に突き刺さっていた。
「……はっ!」
意識を取り戻した私の隣には響ちゃんが心配そうな顔で佇んでいました。
「春香、ごめんな。大丈夫か?」
「うん、なんだかとっても怖い夢を見たよ……」
私と響ちゃんは、動物の声がけたたましく鳴る休憩室に移動しました。
パイプ椅子に腰掛けて、少し落ち着いた後に、ようやく会話を始めました。
「響ちゃんはここでずっと働いているんだ」
「あぁ、店長はああ見えてすっごくいい人だし、動物たちに囲まれてすっごく楽しいぞ!」
そうあっけらかんと笑う響ちゃんの足元に、子犬がすり寄ってきました。
「自分はここの動物たちの世話を全部してて、名前も全員につけてるんだぞ」
どうやらこのお店はマニアにはちょっとした有名店らしくて、余所では見ることのできない
希少な動物たちもいるみたいです。響ちゃんはここの看板娘で、おじさんからもとても可愛がられているそうな。
「そっかぁ、響ちゃん。元気そうで良かった」
「あぁ!自分は完璧だからな!ところで……」
「春香は今なにしてるんだ?」
「えっ……」
今までみんなが気を使って控えてくれたことも、響ちゃんはストレートに聞いてきます。
何やってるんだろうね、私。
なにかのRPGゲームみたいに仲間集めをしている牛丼屋のバイト?
「あの、その、ね」
「?」
ただ正直に言えばいいのに、ついもじもじしていまいます
「えっと、フリーター……みたいな……あはは」
「……」
響ちゃんは目をパチクリさせます。
どうしよう。笑われるのかな。
「そっか!春香も仕事、頑張ってるんだな!よーし自分も負けていられないぞ」
そうでした。私は響ちゃんの表裏の無いこういうところが大好きなのでした。
あずささんの時に言えなかった言葉、今ならやっと言えるかも知れない。
私はぐっと拳を握ってさっきの響ちゃんに負けないくらいの声で叫びました。
「響ちゃん!私とまた一緒にアイドル目指そう!」
「うん、いいぞ」
もし断られても今回は絶対に──
………ってえぇっ?!即答?!
「ただし、このお店は続けるぞ」
「本当にいいの、ちょっとよく考えた方がいいよ?!」
「なんくるないさー。自分、765プロのみんなが大好きだ。
またみんなと会いたいと思ってたんだ」
響ちゃんは屈託の無い満面の笑顔を私に向けます。
「やったぁー!」
「おぉ、春香!笑顔が眩しいぞ」
これまでの苦難がどこかに全部吹き飛んだかのように、
私はプロデューサーさんに褒められたあの日を笑顔を取り戻すことができました。
「じゃ、またすぐに連絡するからねー!」
「春香、またなー!」
手を振る響ちゃんの周りには次第に響ちゃんの体を埋め尽くすほどの大小様々な動物が群がっていました。
「たっだいまぁー!」
居間にいる両親に向かって元気いっぱいな挨拶をします。
お父さんとお母さんはビックリして飛び上がります。
「……春香また何かあったのかしら?」
「……さぁ」
私の背後でそんな声が聞こえました。
部屋に戻ってすぐに、千早ちゃんと律子さんに電話をして、
ブログに文字を走らせました。
「天海春香はできる子応援団」の皆さん!こんにちは!
今日は、我那覇響ちゃんの働くペットショップに行ってきました☆
すっごくいいお店なので皆さんも是非行ってください。住所は後で載せておきます!
アイドルデビューはもうすぐそこです!これからも天海春香を応援してくださいね。
その日の夜には早速コメントがつきました。
春香ちゃんのためならペット好きな友達にどんどん紹介する、とのことです。
私はその日、枕元でニヤニヤしながら、床につきました。
響ちゃんと出会ってから数日がたちました。
「いらっしゃいませー!おいしいですよね、牛丼。」
「春香ちゃん!今日は一段と元気がいいねー」
その日は常連さんからも、あのちょっと怖い店長さんからも笑顔を褒められました。
早めに帰って、久々に趣味のお菓子作りをしました。
「うん、完璧。おいっしい~」
自作のチョコレートケーキを頬張りながら、足をぶらぶらさせて、夕方のニュース番組を眺めていました。
『ジュピター衝撃の解散!』
へぇーまぁ、なんでもいいですけれど。
『それでは、続いてのニュースです。法律に触れる動物を密輸し売買をしていたとして、
都内のペットショップが検挙され、従業員が逮捕──』
ケーキを食べる手がピタリと止まります。
ブラウン管には、私がつい先日行った響ちゃんのお店が映っていました。
チョコレートケーキが床に落ちベチャリと湿った音が、リビングに響きました。
「もしもし……響ちゃん?」
『……春香か?』
電話越しといえども、その私の名前を呼ぶ声はつい先日会った時とはまるで別人であるかのような
憔悴しきったものでした。
『自分、知らなかったとはいえ、悪いことの手助けしてた。』
「ごめんなさい、私が……」
『どうして、謝るんだ?春香は何も悪くないだろ?』
「……」
『絶滅危惧種の動物たちは区で保護される。だけど、他の子たちは他のペットショップで
引き取り手が見つからなかったら処分されるそうだ』
「……」
『自分はいい。だけど、だけど動物たちは何も悪くないだろ?!
うあ……うあああああ!!!』
響ちゃんの泣き声が、私の耳元でリフレインしました。
響パートおわり
元スレ
春香「765プロが倒産してもう1年かぁ……」
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1312989055/
バイトを初めて数カ月、未だに慣れないことばかりです。
持ち前の元気さを買われて面接では即採用だったけれどめまぐるしく変化する飲食店という戦場に
突然放り込まれた私は、ドジっぷりを最大限に発揮してしまいます。
「春香ちゃん!また転んだの?!何回も気をつけて運んでって言ったよね?」
「ごめんなさい。プロデュ……店長」
「はぁ、やる気あるのはわかるんだけどさ、こう何度もミスされるとこっちも困るよ」
「はい……」
バイトが終わる頃にはもう外は真っ暗でした。駅の前で立ち止まってメモ帳を開き、丸で囲まれた「バイト」という字を確認します。
空白が多い日程を改めてみるとなんだか悲しい気分になってきます。以前はビッシリとスケジュールが埋まっていて休みが欲しいと嘆いていた日々が嘘のようです。
以前は街を歩いていると時たまファンの方たちが話しかけてくれたんですが今は一人もいません。アイドルって賞味期限があるものなんだと実感しました。
「プロデューサーさん……」
誰にも聞こえないように呟くと自然と涙がこぼれてきました。でもそんな信頼するプロデューサーさんはもうこの世にはいないのです。
17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 00:36:57.07 ID:8cEOE8zu0
プロデューサーさんは過労死で他界しました。中々オーディションに合格できない私たちに優しく、時には厳しく支えてくれました。
夜も寝ずに12人ものアイドルを一人で背負うにはさすがに荷が重すぎたのでしょう。収録の日の前日に突然自宅で倒れてそのまま
意識が戻らなくなったそうです。お葬式の日は皆、声をあげて泣いていました。あの千早ちゃんですら嗚咽をあげて棺桶の前で突っ伏していました。
社長はその責任を問われて辞任し、私たちの仕事も日に日に無くなっていきました。
そして去年、とうとう765プロは倒産。アイドルグループは解散し、また私は普通の高校生に戻りました。
「みんなに会いたいな……」倒産以来自然とみんなとは疎遠になってしまいました。
きっとみんなプロデューサーさんの一件が重く心にのしかかっているのだと思います。
私がもっと頑張っていれば。そう思うと胸がきゅっと締め付けられてあの優しい顔が心に浮かびます。
26: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 00:49:46.94 ID:8cEOE8zu0
「私、最近笑ってないよね」誰に聞くわけでもなく、ただそう呟きました。
プロデューサーさんに春香は太陽みたいだな、と言われた事を思い出します。
いつも通り何かコンビニでスイーツでも買って帰ろうかと思っているとどこからか聞き覚えのある歌が聞こえてきました
「……あお………り………」
透き通るような声。聞き間違えるハズがありません。アイドル時代私と一番仲が良かった友達の、歌と声ですから。
「あおいいいいとりひいいいいぃぃぃ」
千早ちゃん……。千早ちゃんは夜の駅前で自身のイメージソングである「蒼い鳥」を熱唱していました。
前は小さなライブハウスくらいなら埋め尽くすような観客の前で歌っていた千早ちゃん。
今では寂れた駅のホームで数人の仕事帰りのサラリーマンさんしか立ち止まってくれません。
30: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 00:57:41.81 ID:8cEOE8zu0
「ねぇ、ちょっとそんなしみったれた暗い歌だけじゃなくてさ、もっと明るくパーっとしたの歌えよ」
酔っ払っているのでしょう。赤い顔の千鳥足でフラフラしているカップルらしき人が千早ちゃんに絡みます。
「もしーしあわー……えっ。」
歌の最中で話しかけられた千早ちゃんはちょっと不機嫌そうな顔をしました。こういうところはやっぱり千早ちゃんです。
「あの、すいません。私こういう歌しか歌えなくて」
「えーなんだよ、それ。つまんねぇなぁ。だから君そんな暗そうなんだよ」
「そうそう~だから胸もぺったんこなのよ~」
「……くっ」
千早ちゃんはぐっと拳を握って耐えていました。
千早ちゃん、まだ歌手を諦めていなかったんだ……。
34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:08:55.25 ID:8cEOE8zu0
素直に親友の再会を喜べないのは、どこかアイドルを諦めた今の私の、ちょっとした後ろめたさがあったからかも知れません。
私はそんな千早ちゃんを物陰に隠れながらぼーっと眺めていました。
千早ちゃんはカップルに散々絡かわれた後、深呼吸をゆっくりして再び歌い始めました。
「あおいいいいとりいいいひぃいいいいいもししあわせえええ」
どうして蒼い鳥しか歌わないんだろう。私はふと疑問に思いました。
確かに千早ちゃんが一番気に入っていて、ライブでもアンコールに必ず歌うような特別な曲だけれど
他の曲が歌えないわけじゃありません。中には明るい曲もあったし、一緒にデュエットをしたこともあります。
そして思い出しました。「蒼い鳥」は千早ちゃんにとってプロデューサーさんとの大切な、約束の曲であったということに。
38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:18:25.01 ID:8cEOE8zu0
千早ちゃんはプロデューサーさんの生前、こんな約束をしていました。
「プロデューサー、私この曲で世界へ羽ばたこうと思います。だから、私のこと、応援していてください」
プロデューサーさんはにっこりと笑って「よし、じゃあ千早が世界一になるまで俺がずっと傍にいるよ。約束だ」
といって小指をそっと差し出し、指きりげんまんをしました。
私はその時、隣にいたのですが千早ちゃんのあの時の笑顔は今まで見たことのないほど輝いていました。
「あの時の約束まだ守ってるんだ……。」
プロデューサーさんはもう死んじゃったのに。そう思った瞬間、数メートル先にいる千早ちゃんが不意にぼやけました。
「あれ、目が悪くなったのかな。おかしいなぁ……。」
「おい!うるせーんだよ!静かにしろよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
千早ちゃんは心無いヤジにも一生懸命耐えてその後もずっと「蒼い鳥」を歌っていました。
41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:27:56.22 ID:8cEOE8zu0
千早ちゃんは歌い終わった後に深々と頭を下げたまま
「今日も皆さん、聴いてくださり本当にありがとうございました。」と言いました。
拍手は一切起こりませんでした。立ち止まってい歌を聴いていた人もいつのまにかいなくなっていました。
千早ちゃんの目の前を素通りする人々は目もくれずに去っていきます。
私はいてもたってもいられずに、精一杯大きな音が鳴るように拍手しながら、
千早ちゃんの元に歩み寄っていきました。
「ありがとうございます!」
千早ちゃんは頭をあげてあの時の、プロデューサーさんに見せたような笑顔をお客さんの私に向けました。
「千早ちゃん。久しぶり、すっごく良かったよ……。」
「は……春香……。」
43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:34:33.56 ID:8cEOE8zu0
「なんだか、かっこ悪い所を見せちゃったわね。」
千早ちゃんは私に背を向けながら、目の前に広げていた自作のPOPやCDをせっせと片づけ始めました。
「そんなことないよ。」
そう、千早ちゃんはいつもストイックで何事に対しても全力でマジメに取り組む子なのです。
前に、千早ちゃんそんな気を張っていたら疲れちゃうよ、と言ったことがあります。
千早ちゃんは
「ありがとう。でも私なら大丈夫。歌うことが私の幸せだから」と微笑みを向けました。
もうアイドルじゃなくても、千早ちゃんは千早ちゃんなんだなぁ。それなのに私は……。
46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:41:30.51 ID:8cEOE8zu0
ダンボールに詰まっているCDが目に止まりました。
開封したてのようにぎっしりと詰まっている様を見るに、多分1枚も売れていないのでしょう。
私はその中の1枚を手に取って眺めました。
そのデザインは、お世辞にも優れているとは言えなくて、千早ちゃんの顔写真のアップに、変なフォントで「蒼い鳥 如月千早」と
書かれているだけのものでした。
これじゃ売れるはずないよ、千早ちゃん。
でも、きっと機械音痴な千早ちゃんが慣れないパソコンを使って、必死に作ったんだよね……。
49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 01:53:24.86 ID:8cEOE8zu0
「1枚、買っていくよ。千早ちゃん」
私はバックからお財布を出し、中身を確かめます。うん、大丈夫。この前お給料日だったからなんとか買える。
正直今、時給が少なくて大変だけど、千早ちゃんのためなら。
千早ちゃんは驚いた顔をしました。そうだよね。
だって765プロのときに出した「蒼い鳥」のCDはうちに何十枚もあるから私が買うのって変だもんね。
倒産のときに抱えた大量のCDの在庫は私たちの希望があれば好きなだけもらえました。
「えっ……そんな……」
「いいから、いいから。千早ちゃんはずっとず~~っと仲間だもんげ!」
「ありがとう春香。あなたが、私のCDを買ってくれた、初めてのお客よ……。」
千早ちゃんはうっすらと涙を浮かべていました。私も多分、そうだったと思います。
「あっ……」
「どうしたの?春香?」
お札を握る手がぷるぷると震えてきました。
どうしよう。このお金を払っちゃったら帰りの電車賃が無くなっちゃう。
63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 02:04:27.05 ID:8cEOE8zu0
「千早ちゃん……ごめんね……」
「えっ」
「私、これ払っちゃったら、その、あの、電車が」
「電車?」
千早ちゃんの顔がどうしても見れずに、俯いたままボソボソと呟きます。
たとえば、真が今の私を見たらどう思うかなぁ。
春香!元気がないよ!ボクたちパーフェクトサンなんだよ!といって肩を叩きながら励ましてくれるんだろうなぁ。
もし、伊織がいたら
ちょっと、何しょんぼりしてんのよ。らしくないわよ。全くも~とかいって伊織らしく声をかけてくれるんだろうなぁ。
真も伊織も何しているんだろ。もし会えたら千早ちゃんは今も頑張っているんだよって伝えてあげたい。
「春香、もしかしてお金が無いの?」
軽く現実逃避をしていた私は千早ちゃんの声で不意に引き戻されました。
「……うん。」
あの時の惨めな気持ちは、例えようが無いものでした。
75: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 02:16:56.94 ID:8cEOE8zu0
その後、千早ちゃんが気を使ってくれてCDをタダでくれました。
私は何度もごめんね、ごめんねと千早ちゃんに謝り続けました。
千早ちゃんは
「いいのよ。久々に会えたわけだし、私の歌を聴いてくれていただけでも本当に嬉しかった。
それに春香は、私のパートナーでしょ?困った時はお互い様じゃない」
その千早ちゃんの全ての言葉が私に突き刺さりました。
久々の再会がこんな結果になってしまったこと、私は歌うことをやめて牛丼屋のお荷物バイト、
デュオを組んでいた千早ちゃんにこんなに気を遣わせてしまったこと。
私は連絡先を交換した後、千早ちゃんと別れました。
一度も笑えませんでした。久々に会えてすごく嬉しいハズなのに。
千早ちゃんはこの後も別の場所で路上ライブを行うのでしょう。
重そうな荷物をよろよろとした足取りで抱えつつ、夜の闇に消えていきました。
「コンビニでも行こう……。」
私は沈んだ気持ちで、下を向いて歩きました。電車賃、落ちてないかな……。
81: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 02:28:55.16 ID:8cEOE8zu0
気分転換に、普段とは違うコンビニに行くことにしました。
どうしようもなくなった時は、こういうちょっとしたことが楽しかったりするものです。
ここ最近コンビニで、知らず知らず習慣になってしまったことがあります。
雑誌のコーナーに真っ先に行き、週刊誌に目を通すことです。
ライバルだった事務所のアイドル達は、今や押しも押されぬトップアイドルです。
テレビを点けたら毎日その姿を見かけるし、都市の電光掲示板では生き生きとダンスを踊っています。
もしかしたら私も今頃は……。
そんなことを考えても無駄なことはわかっているのですが、どうしてもやめられません。
雑誌の表紙を飾ったことは無いけれど、ファッション誌の小さな記事に初めて私が掲載された時は
涙が出るほど嬉しかった。その日は765プロきってのパーティーが開催され皆、春香、おめでとうと祝ってくれました。
切り抜きは今でも私の机に飾ってあります。
85: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 02:37:56.64 ID:8cEOE8zu0
もう、こうして羨ましがるのはやめにしよう。
私はまだまだ18歳、アイドルの夢が潰えたからといって未来が無いわけではありません。
そう思って雑誌をゆっくりと閉じ、戻しました。
だけど、きっと私は明日も同じことをしてしまうのでしょう。
「お腹減ったなぁ。」
バイト明けでお昼から何も口に入れてないので、お腹の虫がくぅと鳴りました。
牛丼ばかり食べてて体重は少し増えてしまいました。
具体的には言えませんがアイドルとしてはちょっと厳しい数字です。
「ダイエット中だけど、少しだけ食べようかな」
昔はアイドルとして減量生活をしていましたが、今のダイエットは完全な自己満足で、何を食べても自由です。
俯いたままレジへ向い、小さな声で店員さんに言いました
「からあげくんください」
90: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 02:50:42.24 ID:8cEOE8zu0
「……春香」
落ち着いた声で店員さんが私の名前を呼びました。
こんな場所で自分の名前を呼ばれるなんて全く予想をしていなかったのでちょっとビックリしました。
ファンの人かな。だったら謝ろう。
アイドルの天海春香はもういないの。だからもう私のファンの前で笑ったり、握手することはできないんです。
「あ……」
顔をあげると、私がよく知っている人がそこにはいました。
トレードマークのメタルフレームの眼鏡に、左右に跳ねたお下げの茶髪。
「からあげくんレッドじゃなくていいの?」
「律子さん……」
店員さんは、私と一緒にステージに立ったアイドルでもあり、陰で支えてくれた事務員でもあり、またもう一人のプロデューサーでもあった
秋月律子さんでした。
233: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 16:54:08.27 ID:8cEOE8zu0
「律子さん……」
呆然としている私に、律子さんはやれやれという風にため息を一つつき、
「210円になります。お客様」
と囁きました。私はそれで意識を取り戻したかのように
「あっ、はい、すいません!」
と謝りつつ財布の小銭を急いで取りだそうとしました。
しかし、ドジな私は手が滑ってしまい、コンビニのよく磨かれた白い床に思いっきりお金を
ぶちまけてしまいました。
「すいません、すいません。」
私は膝をついて、大急ぎで散らばった小銭をかき集めようとしました。
なんだか、最近謝ってばかりです。
240: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 17:10:05.42 ID:8cEOE8zu0
「すいません!210円ですね!すいません!」
バイトの謝り癖がどうしても抜けません。
律子さんは少し訝しげな表情を浮かべましたが、やがて察したように
「ごめんなさい、本当はタダにしてあげたいのだけれどそういうの店長がうるさいのよ」
と私の耳元に顔を近づけて言いました。
律子さん、コンビニの店員してるんだ……。
私と同じ境遇なのかな。そう思うと少しだけ気持ちが楽になった気がします。
「春香、あと15分47秒で勤務時間が終わるから、もし予定が無かったら外で待ってて貰える?」
「えっ あ、はい。わかりました」
1年ぶりに再会する律子さんは相変わらずキッチリしていて、まさに仕事ができる女といったところです。
軽く会釈をして、コンビニの外でホカホカのからあげくんを食べながら律子さんを待ちました。
245: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 17:22:48.89 ID:8cEOE8zu0
「からあげくんおいしい……おいしいなぁ……」
うわ言のようにおいしい、おいしいと唱えながら口一杯に頬張りました。
もう日付が変わる頃に、コンビニの駐車場でからあげくんを食べている女の子が
珍しいのか、道を横切るカップルやスーツを着た人たちが私を一瞥して去っていきます。
なんだか、このからあげくんちょっと味付けがしょっぱいです。
「春香、久しぶりね。はいお疲れ様」
律子さんは隣に腰掛けて、冷たい缶コーヒーを私の目の前に差し出しました。
「ふえ、いいんですか?」
「これは仕事が終わった後にプライベードで私が買ったものだから、気にしない気にしなーい」
「ありがとうございます」
缶を両手で包み込むと、ひんやりとしていて私の火照った体を冷ましてくれました。
248: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 17:31:57.72 ID:8cEOE8zu0
「律子さん、髪型元に戻しちゃったんですか」
「あー、そうねぇ。コレだと年配受けがいいしそれに……」
コーヒーのプルトップを開けて、続けます。
「ま、もう色気づく必要は無いしね」
その時、律子さんの表情がほんのちょっとだけ暗くなりました。
「あのぅ、ちょっと失礼なこと聞いてもいいですか?」
「んー?なーに?」
「律子さんどうしてコンビニで働いてるんですか?律子さんだったら、もっといい職場にだって……」
254: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 17:49:32.37 ID:8cEOE8zu0
「あんたねぇ、そういうトコロは全然変わってないわね」
「ご、ごめんなさい」
「ま、そこが春香の長所でもあるんだけれどね」
律子さんはそう言って、意地悪な笑顔を私に向けました。
さすが律子さん。プロデューサーとして私達を見てくれただけあって、何でもお見通しのようです。
だから、現状を察してくれたのか私の生活について一言も聞かれることはありませんでした。
ついこの前までは
「天海春香17歳です!夢はアイドルとしてステージに立つことです!」
と胸を張って自己紹介できたのに、今は何も詮索されたくありません。
「ま、このコンビニは私がアイドル時代にイメージガールとして起用された事があるから、
色々と都合がきくしね。それに、今は準備期間。これからどんな職に就くとしても資格やら経験やら必要になるから」
平坦な口調で律子さんは語ってくれました。だけどその瞬間、私は顔が急にかぁっと赤くなるのを感じました。
私は宛も無くフラフラとしているだけ。さっき、私と同じ境遇だなんて思ってしまったことが恥ずかしいです。
259: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 18:00:53.49 ID:8cEOE8zu0
「あの、さっき千早ちゃんに会いました」
なかば必死に、なるべく悟られないように話題をすり替えました。
「また急な話ね……」
「聞いてください千早ちゃんたら凄くって──」
それから私は先ほどの出来事を、なるべく明るく好意的に天海春香的に伝えました。
電車賃が無くてCDが買えなかったことは黙っておきました。
「へぇ~やるじゃない」
律子さんは感心、感心といった具合に首を縦に振りました。
「そうなんですよ。千早ちゃんだったら絶対に……」
そう言いかけて、止めました。それは私の、すっかり板についてしまった
雪歩印のネガティヴシンキングからによるものではなくある突拍子もない閃きが生まれたからです。
「律子さん……今、やりたいこと探してるんですよね?」
268: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 18:16:19.92 ID:8cEOE8zu0
「そうだけど、なんか良からぬ事たくらんでるわね?」
「えっ どうしてですか」
「目を見ればわかる」
こういうどうとでもないやり取りが急に懐かしく、遠いもののように思えました。
去年、みんなで海へ行き、私が海で溺れそうになったときに真っ先に駆けつけてくれたのが律子さんでした。
その時も確か律子さんはこう言ってました。
「全く、春香は本当に危なっかしいんだから。よ~~く見張っておいて正解だったわ」
「あ、あははは~……。ありがとうございます~……」
あの日の天海春香は無邪気に笑っていました。
「あのっあのっ、無茶なお願いなのはわかっています!千早ちゃんをまたプロデュースしてください!
千早ちゃんは私と違って才能があるし、熱意もあるから!だけど千早ちゃんって一人で頑張りすぎちゃって周りが
見えないことがあるからだから律子さんが傍にいてくれればきっとうまく──」
「残念だけど、それは無理」
まるでそう言うのがわかってましたと言わんばかりに私の言葉を遮りました。
息を荒げて、涙目な私とは対照的に、律子さんは落ち着いた冷静な口調で、三本の指をつきだしてこう言いました。
「理由は3つあるわ」
278: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 18:45:29.32 ID:8cEOE8zu0
律子さんはゆっくりと薬指を折り曲げて続けました。
「まず一つ、資金が無いわ」
「………」
あまりにシビアかつ現実的な答えに私は空いた口が塞がりませんでした。
「プロデュース業もボランティアじゃないからね。それになりに元手がいるのよ。
そんな大金、しがない二十歳のからあげくん揚げてるコンビニ店員にあると思う?」
「……でも!」
「二つ目ね」
今度は中指を手のひらにしまいます。
「私たちのプロデューサーが過労死したことは随分と騒がれたわ。
『12人のアイドルを同時にプロデュースする敏腕プロデューサー』なんて業界ではちょっとした有名人だったしね
そんなアイドルを積極的に使いたがると思う?負のイメージを払拭するのって中々難しいの」
「でも……でも……!」
もはや懇願というよりも、ただの悲痛の叫びでした。
「最後の3つ目なんだけど……。まぁ私って凝り性だから状況が困難なほど燃えるものだし、今まで言った2つの事は
対して重要ではないの。」
そう言って律子さんは人差し指を収めて、ぎゅっと拳を握りました。
「私はね、もうトッププロデューサーの夢は諦めたの」
「……!」
283: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 19:06:53.08 ID:8cEOE8zu0
「今までは単なるお伽噺だったってことかな」
心無しかそう言う律子さんはいつもよりなんだかちっちゃく見えました。
「私の父が経営家なのは知ってるでしょ?そんな父の背中を見て育って、
私も実業家を目指していたけれど、あんなことがあったでしょ」
普段強気な律子さんが見せる脆さを私は知っていました。こういうところはちょっと千早ちゃんに似てる。
飲みかけの缶コーヒーを啜りながらポツポツと律子さんは言葉を紡ぎました。
「だからね、私はみんなをあんな悲しい目に合わせるのは、二度とイヤなの。」
そこで私は気づいてしまいました。律子さんはプロデューサーさんと一番長く、時を共に過ごしたことに。
事務員でもあり、プロデューサーでもあった律子さんは二人三脚で、お互い助け合って歩んできたに違いありません。
だからそんな律子さんは、きっと誰よりも一番プロデューサーさんの死に責任を感じているのでしょう。
律子さんの大きな瞳から大粒の涙がひとつこぼれました。
「あーもー、らしくないったらないわ。センチメンタルな気分にさせないでよ」
眼鏡を外して涙を拭う律子さんがそのとき、ただただ悲しく映りました。
290: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 19:16:26.31 ID:8cEOE8zu0
「力になれなくて悪いわね。そういうことだから。あ、あとたまには連絡しなさいよ」
スッと立ち上がった律子さんの目からはもう涙は消えていました。
「さっ、もう遅いでしょ。未成年は早めに帰宅すること。」
律子さんは半ば強引に私の背中を押します。
きっと律子さんは私がいなくなった後、一人でまたちょっとだけ泣くのでしょう。
だけど、お節介だとは思いながらもどうしても心に引っかかったことがあります。
よした方がいいのに、つい口に出してしまいます。律子さんからしたらこれも私の良いところなのかな。
「嘘ですよね」
「えっ」
私を押す手の力が抜けるのが、背中越しに伝わりました。
「プロデューサー業を諦めたなんて、そんなのウソですよね。本当はまだやりたいんですよね。」
「……」
夜の駐車場に沈黙が流れました。
300: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 19:34:27.83 ID:8cEOE8zu0
律子さんの気持ちは私には、痛いほどわかりました。
本当はアイドルをやりたいけれど、自分ではどうしようもない現実。
もう二度と戻ってはこないと思いつつも、どうしても追い求めてしまう思い出の日々。
「……」
背後にいるので、律子さんが今どんな顔をしているのかはわかりません。
けれど……。
「理想論語っても仕方ないでしょ。765プロはもう無くて、プロデューサーはいない。
なにより、みんなはバラバラになってしまったし……。今さら新しい子たちと仲良くやれったって……」
「──ますか」
私はくるっと半回転し、律子さんの正面に向きなおります。
良かった。今回は転ばずに済んだ。これでコケちゃったら格好つかないですよね。プロデューサーさん。
私、ちょっと勇気を出して、頑張ってみようと思います。
「春香?」
「私が、もしみんなを説得できたら、またプロデューサーになってもらえますか!!!」
337: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 20:58:10.67 ID:8cEOE8zu0
「はぁ、ただいま」
真っ暗な部屋で、ため息がひとつ。
お母さんとお父さんはもう寝てしまっているみたいです。
家に帰る頃には時計の針はもう1時を指していました。
引き千切るようにリボンを解き、シンプルな白のジャケットとピンクのシャツを床に脱ぎ捨て……
「あぁぁぁやっちゃった やっちゃった!どうしてあんな事言っちゃったんだろう!」
ベッドにダイブして、枕で顔を隠しながら力の限り悶えました。
絶対無理だよあの時はちょっと私も雰囲気に呑まれちゃっただけであって私なんて普通のどこにでもいる
何の変哲もないフリーターだしそもそも私が律子さんに偉そうなこと言える立場でも無いしアイドルとしての
努力なんて今はもう何もしてないしあーもうわっほい!
下着姿で転げまわってる私にはもはやアイドルの面影もありませんでした。
345: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 21:18:45.41 ID:8cEOE8zu0
暴れたら少し落ち着きました。
寝転がったまま、ゆっくりとさっきのコンビニでの出来事を思い出します。
律子さんは呆気に取られていました。
まるで石像になったかのように硬直する律子さん。
もしカメラがあったら撮影したかったなぁ……。
「あ、あの……」
なんだか居た堪れなくなって、苦笑いを浮かべながら律子さんに話しかけました。
すると突然、堰を切ったように律子さんはお腹を抱えて笑い始めました。
「春香、あんたサイコー!話がぜっんぜん繋がらないし、支離滅裂じゃない!」
「えっあの……」
うろたえる私の前でお構いなしにひとしきり笑い転げた後、一つ深く息を吐いて言いました。
「春香、あんた携帯変えたでしょ?」
突然の話の転換にちょっとビックリしましたが、落ち着いて答えました。
「はい。転んで水に落としちゃって……データも全部消えちゃいました」
「どおりで繋がらないわけだ。で、どうやってこれから皆に連絡とるつもり?」
「あ……」
勢いに任せて何も考えずに言った自分が、また段々と恥ずかしくなってきました。
353: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 21:31:36.61 ID:8cEOE8zu0
「はい、これ」
律子さんは小さなポーチから1枚の紙切れを取り出し、私の手に握らせました。
「電話番号と住所、全員分ね。あ、悪用しちゃダメよ。」
「律子さん……」
そのあと、律子さんと駅まで一緒に帰りました。
結局、返事は聞けませんでしたが別れ際に春香は765プロの皆が大好きなのね、と
律子さんはそう言って改札を抜けていきました。
なんだか私、ちょっと元気が出てきたみたいです。
365: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 21:47:04.83 ID:8cEOE8zu0
「……ブログの更新でもしよう」
ノートパソコンの前で胡坐をかいて、ブラウザを立ち上げます。
パソコンの操作法は小鳥さんに教えてもらって、インターネットを使うくらいなら出来るようになりました。
慣れた手つきで、お気に入りから私のブログのページを開きます。
えーっと……
みなさん!今日は更新が遅くなってごめんなさい!
今日はなんとあの如月千早ちゃんと秋月律子さんに会っちゃいました!
オーディションの帰りがけにばったりと会ったんですが、本当にビックリ☆
すぐにまた仲良しの3人に戻って、すっかり話しこんじゃいました。
今回のオーディションは、自信があります!皆さん、これからも天海春香を応援してくださいねー。
書き終わった後に、深いため息が漏れました。額に手を当てて、たっぷりと自己嫌悪に浸ります。
そう、私はネット上ではまだアイドルの天海春香を演じているのです。
375: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 21:57:52.38 ID:8cEOE8zu0
現役だった頃は、更新した瞬間にはもうコメントが何件もついていて
あぁ、また1人1人にお返事するのが大変だなぁ、なんて笑っていましたが
今ではすっかり閑古鳥が鳴いていて、「春香ちゃんはできる子応援団」なるファンの方たちが2~3人ほどたまに書き込んでくれるだけです。
あとは、コメントがついたと思ったらどこかの怪しいサイトの宣伝だったりしたりして。
だけど、それでも応援してくれる事が嬉しくて、ついつい皆さんが喜んでくれるようなウソをついてしまいます。
今日はもう寝ようかな。シャワー浴びてないけど、まぁいっか。
そっと電気を消して私は深い眠りにつきました。
390: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 22:21:53.20 ID:8cEOE8zu0
「す、すいませーん!遅刻しましたぁ!」
「春香ちゃぁん!早くホール入って!今日は休日だから忙しいんだからね?!」
「ごめんなさい!はい、お客さん、特盛りですよ!特盛り!」
「そういうのいいから!」
「すいません、つい癖で」
次の日は早朝からのバイトで大遅刻をかましてしまいました。
ただでさえ肩身が狭いのに、遅刻までしてしまったら
店員さんの私を見る顔が険しくなるのも無理がありません。
一生懸命頑張ればなんとかなる、と思ってきましたしプロデューサーさんにも
「春香は明るくて、一生懸命頑張るところが俺は好きだなぁ」と私の頭をなででくれたことがずっと記憶に残っています。
だけど、やっぱり向いてないかなって思う時もあります。
プロデューサーさん……。
「ちょっと、仕事中に何泣いてるの?泣きたいのはこっちだよ!」
「ごめんなさい!いらっしゃいませー!」
この日のバイトは転倒2回、オーダーミス1回でなんとか済みました。
406: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 22:42:15.32 ID:8cEOE8zu0
「では、お疲れ様でした!お先に失礼します!」
今日のバイトはお昼頃に終わりました。
特にこれから何の予定もありません。スケジュール帳を開いてみますが、当然のように真っ白です。
高校時代はアイドルの活動が忙しかったから、765プロ以外の親しい友達はいません。
いえ、いるのにはいたのですが卒業した後はなんとなく後ろめたくなってしまい、疎遠になってしまいました。
駅前に立ち寄ってみましたが、千早ちゃんはそこにはいませんでした。
「当たり前だよね……」
私は、一体何を期待していたんだろう。体が疲れていると心もつい沈みがちになってしまいます。
「っていけない、いけない! 春香!元気出さないと!」
昨日の律子さんとの一件を思い出し、無理やり自分を奮い立たせます。
「……あれ?」
そこでふと、遠くの方に見覚えのある姿を見かけました。
あの綺麗な青髪のショートカットに、1本角のように突き出た独特のヘアスタイル……。
見間違うハズがありません。
415: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 22:59:29.58 ID:8cEOE8zu0
私はその遠くに見えるシルエットに向かって歩を進めます。
「あらあら~困ったわね~」
その人はうろうろと同じ道を行ったり来たりしています。
やっぱりだ。ゆったりとした口調、そして一緒にシャワーを浴びたりするときに、
ちょっと羨ましかったそのグラマラスなスタイル。
私は声をかける前に、軽く深呼吸をしました。
千早ちゃんや律子さんのときはあまりに突然だったけれど、今度は大丈夫。ちゃんと笑える。
精一杯の微笑みを携えて
「あずささん」
その人の名前を呼びました。
422: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 23:14:17.56 ID:8cEOE8zu0
あずささんは相変わらずゆっくりとしたペースで私の方を振り返りました。
それから私の顔をまじまじと見つめて、目をパチクリとしたあとにやっと
「あら~春香ちゃんじゃないの~おはよう~」
「おはようってもうお昼ですよ……」
まるであずささんはつい昨日にでも出会ったかのように呑気な挨拶をしてくれました。
もしかしたらあずささんの中では、1年の月日なんてほんの些細なことなのかも知れません。
そして、そんな何も変わらないあずささんがなんだかとっても懐かしくて、とっても嬉しくて
ついつい自然と笑みがこぼれてしまいます。
424: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/11(木) 23:21:08.32 ID:8cEOE8zu0
あぁ、なんだか久しぶりに普通に笑えました。
「春香ちゃん~私また道に迷っちゃって~」
「ふふっ、何処に行こうとしてるんですか?あずささん」
このゆっくりと時間が流れるような感じが大好きで、私の胸はポカポカとしてきます。
ちょっと頼りないけれど、一番年上のお姉さんとして私たちのムードメーカーとなってくれたあずささん。
本当に、本当に会えてよかった。
「春香ちゃんはここの道に詳しいのね~」
「えぇ、何でも聞いてください!」
「あらー頼もしいわね~」
「ふふっ」
「えっと~765プロの事務所はどこにあるのかしら~」
「……えっ」
「お仕事に遅れちゃうわ~」
その瞬間、私の心が一気に凍りつきました。
あずささんは、本当にあの日以来何も変わっていなかったのです。
459: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 00:33:24.02 id:IZVrRlvE0
「あずささん……!」
思わず涙がこぼれそうになるのを歯を食いしばってぐっと堪えます。
昨日の千早ちゃんはどんなひどい言葉をぶつけられても必死に歌っていました。
律子さんは、本当は辛いけれども、私の前ではしっかり者の律子さんでいてくれました。
だから今日は、ここは私が頑張らなくちゃいけない場面です。
「765プロは……765プロは……」
言葉が上手く喉から出てきません。
「もうどこにも無いんです……!」
良かった。どうしてもあずささんの顔を見られなくて目を瞑ってしまったけれど、ちゃんと言いきれた。
「あらーそれじゃあ、お仕事ができないわね~。今日は現場に直接行かなくちゃいけないのかしら~」
「……ぅっ」
胸の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚が収まりません。
もし千早ちゃんが駅にいてくれれば……。
そんなことを考えてしまうダメな私です。
487: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 01:13:12.31 id:IZVrRlvE0
「プロデューサーさんがいないと事務所に行けないわ~」
頬に手を当てて少し小首をかしげるような仕草はあずささんの癖でした。
あずささんは相変わらず持ち前のペースを崩しません。
さっきまではそれが何よりの安心感を与えてくれましたが、今は逆に、不安にさせます。
「聞いてください!765プロもプロデューサーさんももういないんです!
お願いだから……受けいれてください!」
突然大声をあげた私に、街の人々が一斉に振り返ります。
アイドルは見られるのが仕事だから、なんて笑えない冗談が頭に浮かびます。
「……春香ちゃん」
アスファルトを睨んでいた私の頭上で、優しい声が響きました。
「事務所に行く途中にね、大きな坂道があるでしょう」
「……」
「あそこを登っているといつもね」
「……」
「プロデューサーさんがその先にいるような気がするのよ~ダメね~私ったら~」
あずささんはプロデューサーさんが亡くなった事を、心の奥底では認めていました。
648: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 17:39:51.12 id:IZVrRlvE0
「春香ちゃん、今お暇なのかしら~」
「……」
「一緒に行ってほしい場所があるの」
「……はい」
ダメだな、私。
律子さんの前ではあんなに粋がってみせたのに、今はただ必死になにかを我慢することしかできません。
あずささんの数歩後ろに、ピッタリ沿うように行き先も告げられていない場所へ向かいました。
電車に数十分揺らされ、改札を出て、細い路地を小さな歩幅で進んでいきます。
普段は迷子になってばかりのあずささんだけれど、この時ばかりは複雑な道を一度として間違えることはありませんでした。
「あの、もしかして」
「うふふ……」
駅で降りた時からなんとなく予想はついていました。だけどどうして私とここに……?
石畳の階段を抜けた先には、都内では珍しく雑木林が生茂った景色が広がりました。
やっぱりここって……
「プロデューサーさんのお墓……」
655: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 18:00:27.43 id:IZVrRlvE0
お墓の前にはまだ真新しいお花がたくさん添えられていました。
「あら、このお花は美希ちゃんね~」
「えっ、美希がここに?」
「そうよ~。今でもよく見かけるわ~毎回この真っ赤なバラを置いていくのよ~
お供えに棘のある花はよくないって言われてるのにね~」
美希がつい最近ここに来ている……。そのことを知った私はちょっと嬉しくなりました。
まだ美希はプロデューサーさんの事を忘れていない。会おうと思えば、いつでも会うことができる。
「それと貴音ちゃんにもたまに会うわね~」
その名前を聞いた時に、ちょっと複雑な気持ちになりました。だって高音さんは……。
「プロデューサーさんお元気ですか~。今日は春香ちゃんが一緒に来てくれましたよ~」
あずささんはお墓の前に座り、笑顔で手の平をそっと合わせます。
やだなぁあずささん元気なわけ無いじゃないですか!そうツッコもうとしてやめました。
冗談にしては全然笑えないですよね。
663: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 18:16:07.44 id:IZVrRlvE0
私がここに来るのは半年ぶりのことです。
それはプロデューサーさんへの気持ちがを薄らいだ訳では無くて、
このポツンとたっているお墓を見ると、プロデューサーさんが死んでしまった事を
何よりも実感して、辛くなるからです。
「あの、どうして私とここに?」
先ほどの疑問をあずささんにぶつけます。
なるべく平静を装おうとしますがどうしても言い方が固くなってしまいます。
「プロデューサーさん~起きてください~」
私を無視するかのようにあずささんはお墓に向かって喋りかけています。
「春香ちゃんが悲しんでますよ~。こんな良い子を悲しませるなんて、あんまりですよ~」
「あずささん……」
ダメだ、やっぱりあずささんはおかしくなっちゃったんだ……。
668: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 18:29:23.39 id:IZVrRlvE0
「……本当はね」
「えっ」
あずささんの声がほんのちょっとだけ低くなりました。
「私もわかっているの。プロデューサーさんにはもう二度と会うことができないって」
「あずささん……」
それからちょっとの沈黙が流れて。
そよ風が木々を揺らします。都内では珍しく、セミが鳴いていました。
しばらくして、あずささんがいつものんびりした口調でゆっくりと語り始めました。
「今でもよく覚えているわ~。そう、あれは今日のようなとても暑い日だったわね~」
「……」
私はただ黙って聞いていました。
675: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 18:54:53.09 id:IZVrRlvE0
「前日はオフの日で、私は友美とお買いものをしていたのだけれど、突然プロデューサーさんから電話がかかってきたの
あずささん!やりました!他のアイドルのキャンセルで急遽明日の仕事が取れたんです!ってね~。
久々のお仕事だったから、それを聞いた時は嬉しかったわ~。それじゃあ、明日事務所に向かいますねとお返ししたら
いえ、あずささん、明日は時間が無いので現場に直接行きますよ!待ち合わせ場所は、そうだあの大きな坂道の先で車を停めておきます!
時間は朝8時で!なんてプロデューサーさん早口で言うものだから覚えるのが大変だったわね~
その日の夜はいつもより早く寝て、待ち合わせ場所に早めについたのだけれど、8時になっても、ずっと待っていてもプロデューサーさんは来ないから
あらあら~おかしいわね~私また間違えちゃったのかしら~なんて思っていたら音無さんから電話がかかってきて、
それで初めてプロデューサーさんが病院に運ばれていたのを知ったわ~。
だからね~毎週土曜日になると、わかっていても、どうしてもあの坂の上でプロデューサーさんの車を探してしまうのよ~私ったらダメね~」
思い出しました。あの、プロデューサーさんが倒れた日はあずささんの番組の収録の日だったことに。
684: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 19:15:37.14 id:IZVrRlvE0
「でも、今日春香ちゃんに会えて、なんだかこれじゃいけないってわかりました~」
「……うぅ」
絶対に泣かないと心に強く誓ったのですが、私はどうしても嗚咽を抑えることができませんでした。
「私、母親が紹介してくれた男性とお見合い結婚しようと思います~
運命の人に会うことは出来なかったけれど、プロデューサーさん、応援してくれますか~?」
「あ……あずささん……」
私はそれからもずっと、「あずささん」とただただ繰り返すことしかできませんでした。
あずささんパートおわり
741: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 21:04:39.82 id:IZVrRlvE0
「ただいま」
赤く腫れた目を両親に見られたくなくて、居間を急ぎ足で通りぬけて、部屋のドアを閉めました。
「もう疲れた……」
結んだリボンを解いてベッドに埋もれると、間髪いれずにドアがゆっくりと開かれました。
「えっ誰……じゃなくて春香、おかえりなさい」
「お母さん、ちょっとノックくらいしてよ!」
「あら私ったら、うっかりしてたわ。春香、最近疲れているみたいだけれど大丈夫?」
「うん、ありがとう。だから心配しないで。」
「そう、春香は昔っから危なっかしいから心配してもしきれないわ。お金の方は大丈夫なの?」
高校を卒業した後に、就職もせずフリーターをしている自分が後ろめたくて、
せめてお金の事だけは迷惑させまいとお小遣いは貰っていません。ちょっとだけですが仕送りも入れています。
「大丈夫、大丈夫!」
「それならいいけれど、アイドルオーディションは結局──」
「そのうちするから!」
痛いところを突かれた私は半ば無理やり、お母さんを部屋から追い出しました。
750: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 21:16:49.01 id:IZVrRlvE0
「あーもー何やってるんだろ」
やっぱり皆を説得するなんて私には無理だったのかな。
もう諦めちゃおうか。
そんなことが頭によぎった時、突然携帯が鳴り響きました。
「ひゃあっ」
着信音に驚いて飛び起き、慌ててディスプレイを確認すると──
「あ、千早ちゃんだ」
そういえば連絡先交換したんだっけ。何の用だろう。
まぁ、昔は全く用事が無い時とか、ただ「オヤスミ」って言うだけのために掛けたりしたんだけど。
「もしもし?」
『春香?』
受話器越しに千早ちゃんの声が伝わってきます。
759: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 21:38:17.94 id:IZVrRlvE0
『この間はゆっくり話せなくて、ごめんなさいね。』
「んーん。千早ちゃん忙しそうだったしね」
千早ちゃんは普段あまり感情を出さない子だったけれど、その声はどこかはずんでいました。
『律子から全部聞いたわ。……ありがとう。嬉しかった』
「えっいやいやぁ……」
『春香のこと、応援するわ。私に出来ることがあったら、何でもするから』
「えっそんな!私の勝手なわがままだから」
『何言ってるのよ、春香は私のパートナーでしょ?困った時はお互いさまよ』
どこかで聞いたようなセリフを再び耳にしました。
段々と気持ちが解れていくこの感じ。ありがとう千早ちゃん。
それから私たちは時間の許す限り、いっぱいいっぱいお喋りしました。
そしてその数日後、私は今、律子さんのメモを片手にあるお店を捜索しています。
775: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 21:53:43.63 id:IZVrRlvE0
「うーん、地図だとここらへんにあるハズなんだけどなぁ。おっかしいなー」
小言を呟きながら慣れない道を行ったり来たり。
律子さんのお手製の手書きの地図は、あまりに詳しく書かれすぎていて逆に分かりづらいです。
似顔絵つきで「ココ!」なんて自信たっぷりにマーキングされててても……。
近くのおじさんに尋ねても
「うーんそんなお店は聞いたことないなぁ」
なんて言われる始末。
「あー!もう!」
もうヤケで片っ端から路地に当たります。
途中に怪しいクラブやカブトムシ料理店が目につきました。気になるけれど、無視です。
突きあたりにぶつかったらまた次へまた次へ。
それを数回繰り返しているとお目当てのお店の看板が目に入りました。
「もしかして……これ?」
目の前にはささくれた板きれに、ゆがんだ手書きの文字で「ペットショップ」と堂々と書かれていました。
798: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 22:11:49.57 id:IZVrRlvE0
「お、おじゃましま~す……」
なるべく音をたてないように慎重に扉をあけて入店します。
私はお客さんのはずなのに、なんたるアウェー感でしょう。
中は意外と広く、いくつも重ねられた檻の中に今まで見たことの無い動物が
処せましと駆けずりまわっています。
うぅ……できれば早く帰りたい。
道中お猿さんやヘビに威嚇されつつも奥に見える、カウンターで新聞を読んでいるおじさんを目指して、天海春香が進みます。
こんなに緊張したのは、初の舞台ライブの時にファンの皆の前に現れる時以来です。
その時は転んじゃって千早ちゃんの衣装を思いっきりずり下げてしまいました。
今思うと、よく復縁できたなと思います。後で牛丼の割引券でもあげよう。
「あ、あの~ここで我那覇響ちゃんが働いていると聞いたんですけれども……」
805: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 22:27:44.10 id:IZVrRlvE0
新聞を読んでいた強面のおじさんが私を右斜め45°の角度で睨んできます。
その迫力に思わず数歩後ずさりしてしまいました。助けて千早ちゃ~ん!
「あ、あの……響ちゃん……」
若干涙目になりつつももう一度問いかけます。
ここで撤退をしてしまったら今日来た意味がありません。
私を品定めするかのように、つま先から頭のリボンまで視線を滑らせたあと、
面倒そうに腰をあげてようやく
「響ちゃん、お客さんだよ~。なんか普通の女の子が来たよ~」
と店内奥に入っていきました。
私の心臓の鼓動が段々と早くなっていきました。
どうしよう。もし、もし響ちゃんがここでひどいことをされていたりしたら。
あの元気一杯の笑顔が、もう二度と見れなくなっているとしたら……。
「もしかして春香か?!」
あ、どうやら杞憂だったみたいです。店の奥にも聞こえるような大声が響きわたって、
ダバダバとした足音が私にに向かって近づいてきました。
813: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 22:40:10.42 id:IZVrRlvE0
「はっるっかぁ~!久しぶりだな~!」
響ちゃんがスピードを全く落とさずに、一直線に私に向かって来ました。
「えっ……ちょっと待っ──」
「ぐふぅっ!」
この弾丸ライナーはあまりに強烈でした。
響ちゃんは私のお腹に思いっきりタックルして、そのまま二人して床に倒れこみました。
「自分、すっごく会いたかったぞ~!元気だったか~?」
響ちゃんはそのまま私の胸の上で頬ずりをしていた……気がします。
「春香?どうした?」
響ちゃんは私の頬をペチペチと叩いていた……そうです。後で聞いた話だと。
「春香?!おい、春香ァァァァァァァァァー!!!」
私の視界は真っ暗になり、そしてそのまま意識を失いました。
821: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 22:56:30.09 id:IZVrRlvE0
3年後──
千早「春香が死んでもう3年の月日が流れたのね」
あずさ「私の赤ちゃんを、春香ちゃんにも見せたかったわ~」
律子「私たちはどうにかこうにかトップアイドルになったけれども、春香はもういないのね」
響「春香……どうして……」
貴音「わたくしが、もっと早く春香に会えていればこんなことには……」
4人の視線の先には、プロデューサーの墓石の隣に、「天海春香」と書かれた割り箸が一本地面に突き刺さっていた。
「……はっ!」
意識を取り戻した私の隣には響ちゃんが心配そうな顔で佇んでいました。
「春香、ごめんな。大丈夫か?」
「うん、なんだかとっても怖い夢を見たよ……」
829: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 23:12:12.54 id:IZVrRlvE0
私と響ちゃんは、動物の声がけたたましく鳴る休憩室に移動しました。
パイプ椅子に腰掛けて、少し落ち着いた後に、ようやく会話を始めました。
「響ちゃんはここでずっと働いているんだ」
「あぁ、店長はああ見えてすっごくいい人だし、動物たちに囲まれてすっごく楽しいぞ!」
そうあっけらかんと笑う響ちゃんの足元に、子犬がすり寄ってきました。
「自分はここの動物たちの世話を全部してて、名前も全員につけてるんだぞ」
どうやらこのお店はマニアにはちょっとした有名店らしくて、余所では見ることのできない
希少な動物たちもいるみたいです。響ちゃんはここの看板娘で、おじさんからもとても可愛がられているそうな。
「そっかぁ、響ちゃん。元気そうで良かった」
「あぁ!自分は完璧だからな!ところで……」
「春香は今なにしてるんだ?」
「えっ……」
今までみんなが気を使って控えてくれたことも、響ちゃんはストレートに聞いてきます。
837: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 23:26:48.06 id:IZVrRlvE0
何やってるんだろうね、私。
なにかのRPGゲームみたいに仲間集めをしている牛丼屋のバイト?
「あの、その、ね」
「?」
ただ正直に言えばいいのに、ついもじもじしていまいます
「えっと、フリーター……みたいな……あはは」
「……」
響ちゃんは目をパチクリさせます。
どうしよう。笑われるのかな。
「そっか!春香も仕事、頑張ってるんだな!よーし自分も負けていられないぞ」
そうでした。私は響ちゃんの表裏の無いこういうところが大好きなのでした。
あずささんの時に言えなかった言葉、今ならやっと言えるかも知れない。
私はぐっと拳を握ってさっきの響ちゃんに負けないくらいの声で叫びました。
「響ちゃん!私とまた一緒にアイドル目指そう!」
「うん、いいぞ」
もし断られても今回は絶対に──
………ってえぇっ?!即答?!
850: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 23:37:43.69 id:IZVrRlvE0
「ただし、このお店は続けるぞ」
「本当にいいの、ちょっとよく考えた方がいいよ?!」
「なんくるないさー。自分、765プロのみんなが大好きだ。
またみんなと会いたいと思ってたんだ」
響ちゃんは屈託の無い満面の笑顔を私に向けます。
「やったぁー!」
「おぉ、春香!笑顔が眩しいぞ」
これまでの苦難がどこかに全部吹き飛んだかのように、
私はプロデューサーさんに褒められたあの日を笑顔を取り戻すことができました。
「じゃ、またすぐに連絡するからねー!」
「春香、またなー!」
手を振る響ちゃんの周りには次第に響ちゃんの体を埋め尽くすほどの大小様々な動物が群がっていました。
858: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/12(金) 23:48:14.88 id:IZVrRlvE0
「たっだいまぁー!」
居間にいる両親に向かって元気いっぱいな挨拶をします。
お父さんとお母さんはビックリして飛び上がります。
「……春香また何かあったのかしら?」
「……さぁ」
私の背後でそんな声が聞こえました。
部屋に戻ってすぐに、千早ちゃんと律子さんに電話をして、
ブログに文字を走らせました。
「天海春香はできる子応援団」の皆さん!こんにちは!
今日は、我那覇響ちゃんの働くペットショップに行ってきました☆
すっごくいいお店なので皆さんも是非行ってください。住所は後で載せておきます!
アイドルデビューはもうすぐそこです!これからも天海春香を応援してくださいね。
その日の夜には早速コメントがつきました。
春香ちゃんのためならペット好きな友達にどんどん紹介する、とのことです。
私はその日、枕元でニヤニヤしながら、床につきました。
868: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/13(土) 00:01:05.43 ID:3YfIUEY70
響ちゃんと出会ってから数日がたちました。
「いらっしゃいませー!おいしいですよね、牛丼。」
「春香ちゃん!今日は一段と元気がいいねー」
その日は常連さんからも、あのちょっと怖い店長さんからも笑顔を褒められました。
早めに帰って、久々に趣味のお菓子作りをしました。
「うん、完璧。おいっしい~」
自作のチョコレートケーキを頬張りながら、足をぶらぶらさせて、夕方のニュース番組を眺めていました。
『ジュピター衝撃の解散!』
へぇーまぁ、なんでもいいですけれど。
『それでは、続いてのニュースです。法律に触れる動物を密輸し売買をしていたとして、
都内のペットショップが検挙され、従業員が逮捕──』
ケーキを食べる手がピタリと止まります。
ブラウン管には、私がつい先日行った響ちゃんのお店が映っていました。
チョコレートケーキが床に落ちベチャリと湿った音が、リビングに響きました。
892: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/08/13(土) 00:13:50.67 ID:3YfIUEY70
「もしもし……響ちゃん?」
『……春香か?』
電話越しといえども、その私の名前を呼ぶ声はつい先日会った時とはまるで別人であるかのような
憔悴しきったものでした。
『自分、知らなかったとはいえ、悪いことの手助けしてた。』
「ごめんなさい、私が……」
『どうして、謝るんだ?春香は何も悪くないだろ?』
「……」
『絶滅危惧種の動物たちは区で保護される。だけど、他の子たちは他のペットショップで
引き取り手が見つからなかったら処分されるそうだ』
「……」
『自分はいい。だけど、だけど動物たちは何も悪くないだろ?!
うあ……うあああああ!!!』
響ちゃんの泣き声が、私の耳元でリフレインしました。
響パートおわり
元スレ
春香「765プロが倒産してもう1年かぁ……」
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